木村 荘八

 図は牛肉店「いろは」第八支店の、そこで僕の生育した家の正面を写すものであるが、図の向つて左、家の片影に遠見に走るところが、元柳町の、芸妓じんみちになるところで、家の前面に数本の梧桐が立つてゐる。この梧桐については別の文中に云つた。図の右端のガス燈のあるところが、元、「フラフ」のあつたところである。こゝから右へ居流れて、いつも客待ちの人力車夫が屯ろしてゐた。
 家の大屋根から母屋への境界に、恰も軍艦の胴腹のやうにゑぐれたしきりが出来てゐるのは、家を西洋館まがひに見すべく、木のくり型とトタンでこの蛇腹やうのものを添へたわけで、このゑぐれたところに大字で右から「第八支店いろは牛鳥肉店」と横流しにペンキで書いてあつた。(図はこれの書き直しの時の有様でもあらうか、原図は明治四十年ごろの写真である。)「いろは」だけが赤がきだつたらう。

 ぼくは鏑木さんに面と向ふと「先生」と呼ぶ。かげで人との噂や取沙汰に呼ぶ時は、「鏑木さん」または「矢来町」である。かういふ相手方のひとのいつとなく互ひの中で出来る呼び名は、その音や言葉にいひ知れぬ実感のこもつた面白いものであるが、鏑木さんはぼくを「木村サン」といつて下さる。またぼくには鏑木さんを目の前では鏑木さんとは決して呼べないのである。
 それは一々どういふわけでといふ、わけは一向感じない。たゞぼくにとつて鏑木さんは常に余人ならぬ「鏑木さん」で、そして「先生」だといふことを述べる。
 この鏑木さんは又ぼくにとつて古いお方である。親しく御知り合ひになつてからは二十年経つてゐないにしても、ぼくは今年五十歳であるが――と書きながら、ぼくのやうなものも、早や五十歳になつたかと今更ながら時の経過を思ふ。鏑木さんは明治十一年生れ、寅どしの、六十五歳になられた筈である。

 これが森田恒友さんについての書きものならば、日本画とはいはずに水墨とするところであるが、岸田は「水墨」が似合ひでない。のみならず、岸田当人も絹紙に墨の仕事を特別の名で呼んだことがなく、たゞ日本画々々々といふ。森田さん風にこれを水墨といへば、これはまた言外に文人画の意味をこめてゐるやうである。その文人画の意味も岸田の場合には特別の匂ひにならない。
 八大山人風のモティフや石濤の仕事あたりを志して――仕事あたりを志して、といふのが、岸田は常に古人の何かしらの仕事を目ざし、その風を志して、仕事を進めたものだつた。それが岸田の作風の一つであつた。これについては後に述べるだらう――墨画の山水などを岸田も描いたことがあつた。その場合には筆を行る心意気もまた文人画風であつたらうが、総じていふに、岸田は文人画境地の画家ではなかつた。